より良い道を選んでいると信じたいし、選びたい。
けれど、そう思うようにいかないことが、時としてある。
ひとりひとりが、より良く生きようと考えて行動しているのに、空回り。
さらに、周囲を巻き込んで、悲しい循環に陥っていきます。
イラン人の主人公や周囲の人物を、イスラムという宗教や文化は違うのですけれども、
「もしも自分だったら・・・」と置き換えて考えてみますと、
「そういうこと、あるかもしれない」と妙に納得してしまうのです。
そもそも立場が違うということは、利害が一致しないのですから、
和解するということは、非常に難しいわけです。
観ている最中、もやもやした気持ちが晴れることはなく、
観終わった後も、実はほとんど晴れていません。そんな苦しい作品だったりします。
誰も意図していないにも関わらず、結果的には、誰にとっても辛い状況になってしまう。
そんな状況に対して、アスガー・ファルハディ監督は、あえて明確な答えを出しません。
作品では、様々な別離が描かれています。
夫婦、男女、親子、雇用主と使用人、宗教が社会を決める昔の文化と法律が社会を決める現代のイスラム・・・。
「自分だけは悪くない」というエゴのようなものに翻弄されがちです。
誰もが持っているこういう気持ちを手放した時に、
私たちはより良い方向へ進むことができる、と言いたいのかな、と。
そして、「カルマ・ヨガ」をふと思いました。
カルマヨガとは、マットの上でのヨガというよりも、生き方です。
行為の結果に対する思いを放棄し、見返りを求めず私心を交えず行為すること。
<別離 ナデルとシミン Nader and Simin, A Separation さわりのあらすじ>
テヘランで暮らす妻シミンは、11歳になる娘テルメーの将来のことを考えて、夫ナデルとともにイランを出る準備をしていた。
しかしナデルは、アルツハイマー病を抱えることとなった父を置き去りにはできないと国を出ることに反対。夫婦の意見は平行線をたどり、シミンが裁判所に離婚申請をするが、協議は物別れに終わる。
シミンはしばらく家を出ることとなり、ナデルは父の世話のためにラジエーという女性を雇うことにした。
しかし、ある日、ナデルが帰宅すると、父は意識不明でベッドから落ち床に伏せていた。
ナデルは怒りをあらわにして、ラジエーを問い詰め、彼女を手荒く追い出してしまう。
その夜、ナデルは、ラジエーが入院したとの知らせを受ける。
<別離 ナデルとシミン Nader and Simin, A Separation 出品受賞>
第61回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品。
最高賞である金熊賞と、女優賞、男優賞の2つの銀熊賞の計3部門で受賞。
第84回アカデミー賞で、イラン代表作品として外国語映画賞を受賞。脚本賞にもノミネート
2013年8月7日の感想