贋作・桜の森の満開の下 NODA・MAP@東京芸術劇場プレイハウス

偽作・桜の森の満開の下

平成がはじまった29年前に初演され、再演を重ねている作品です。
心に残るシーン、台詞がいっぱいです。

10代の頃、劇団夢の遊眠社で観ました。
野田秀樹(耳男)、毬谷友子(夜長姫)の印象は強烈でした。
若く多感な時期に出会った、野田作品です。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を下敷きとしています。
10代の私は、「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を読み、
「堕落論」にも興味を持ち、「ちょっと難しいな」と思いながら、
背伸びをして読んだものでした。

今回、野田さんは、本人が古典と感じているこの作品を、
「自分をほめてあげたくない気持ち」で、
「若い頃の稚拙さと向き合い、挑みかかり、コテンコテンにしてやろう」と思っているとのこと。

観たことろ、見立てや道具遣いがとても面白く、
役者陣の台詞や動きが研ぎ澄まされ、
シンプルでわかりやすく、洗練されていました。

なにより、役者陣が非常に豪華でした。
妻夫木聡(耳男)、深津絵里(夜長姫)、天海祐希(オオアマ)、古田新太(マナコ)。

コテンコテンというよりも、
抜群のアイデアでトンガって勢いのある若い野田さん、
経験を重ね洗練された今の野田さん、
そこに素晴らしい役者やスタッフたちが、最高にいい具合に溶け合って、
素晴らしいハーモニーを奏でていました。

作品を貫いているのは、「孤独」でしょうか。

1 孤独
  物を創る人間だけでなく、どんな人間も抱く孤独

2 通常とは違った角度から出来事を見る
  神話の隅に追いやられた、負けた側からの歴史やものの見方

3 自分と違うというだけで、差別するところが人間にはある

作り手の野田さんが過去の自分と向き合うように、
観ている私たちも、過去の自分と向き合うことになるのです。

再演されるたび、芝居を通じて、自分と対面します。
本、映画もそうですが、1度目、2度目、3度目と解釈が変わったり、
一番最初のインパクトの強いまま、ずっと変わらなかったり。

考え方や、ものの見方が変わったことで、共感する所が変わり、
また変わらず同じ所でグッと胸にせまってきたり。

このような楽しみ方ができることが、
名作と言われるゆえんなのかもしれません。

坂口安吾が後に書いたエッセイ「桜の花ざかり」には、

東京大空襲の死者たちを上野の山に集めて焼いたとき、
折りしも桜が満開で、人けのない森を風だけが吹き抜け、
「逃げだしたくなるような静寂がはりつめて」いたと記されており、
それが本作執筆の2年前に目撃した「原風景」となっているのだとか。(wiki抜粋)

まさにタイトル通りの「桜の森の満開の下」の、ラストシーン。
あまりにも哀しくて、美しすぎて、
胸が熱くなってしまうのです。
野田作品の中で最も好きな作品です。

今作、フランスのパリでも上演されたとのこと。
現地での感想や反応、
今の日本の10代・20代の若い人の感想や反応は、
いったいどういうものなのでしょうか。

偽作・桜の森の満開の下